スタッフ紹介

院長 兼城 和馬

院長  兼城 和馬

役職
院長
出身
うるま市出身
誕生日
平成2年6月24日生まれ
学歴
具志川高校卒業、沖縄統合医療学院柔道整復科卒業
趣味
飲み会、筋トレ 読書 海外ドラマ鑑賞

治療家になったきっかけ

 

沖縄県うるま市で4人兄弟の末っ子として生まれました。

今では感情を表に出さない温厚な性格ですが、幼少期はおしゃべりの多い子だったようです。

小さい頃の写真を見返すと、ほとんどが変な顔でしたり戦隊シリーズのポーズで写っているので少し恥ずかしいです。(笑)

 

小学3年生から高校までサッカーに明け暮れていました。

サッカーをしていましたが長距離を走るのがかなり苦手でした。長距離を走る際はいつも後ろから数えた方が早かったと思います。小学生の頃はいつも練習が苦痛でしたが、頑張って練習を重ねて初めて試合に出させてもらった時に楽しさに気づき、そこからはのめり込むように練習に励んでいました。

中学・高校も地元ではそこそこ強いチームでした。部員も70人近くいたので、その中から試合に出れるのは限られているので、今思うとなかなかハードに運動をしていたと思います。

当時は、疲れ切った体を労わることはせずにどんどん負荷をかけていたので、高校3年のある日、朝起きて寝た状態でくしゃみをした瞬間ぎっくり腰をしてしまいました。傷めた瞬間腰に激痛が走り、身動きが取れない状態でした。立ち上がるまでに10分くらい痛みと格闘し冷や汗ダラダラです。

 

すぐに整形外科に行き、レントゲンを撮りました。レントゲンを撮るのも一苦労で、体勢を少しでも変える度に激痛に襲われます。レントゲンの結果は「異常なしだね、湿布貼って安静にしといてね」との事。ちゃんと先生の言われた通り安静にしてもなかなか良くならず…このまま今後の人生治らないのか?と大袈裟かもしれませんが思っていました。

それから3日経っても良くならず、知り合いの紹介で整骨院に通いました。

 

整骨院の先生は凄く親身に話を聞いてくれて、不安だった私の気持ちが安心した事と、施術を受けた後は、腰が軽くなりました。治らないのではないかと思っていた私に希望を感じる事ができました。

それから通院していく内に、みるみる回復し痛みを堪えて生活していた日々から抜け出すことができました。

 

その時から、整骨院で働き私と同じように苦しんでいる人たちを助けたいと思う様になりました。

 

 

高校卒業後、専門学校に行きながら整骨院で助手として働かせてもらいました。

そこでは、電気をあてる・マッサージをする・ストレッチをする・マッサージ機にのってもらうという事を、流れ作業のようにこなしていました。

「これで本当に治るのか?」という疑問を抱えて仕事をしていました。僕がやりたいと思っていた仕事はこれなのかと半信半疑になっていました。

 

転機があったのは、現在の治療法に出会った事でした。

以前はいかに気持ちよくマッサージをするかという事をしていました。痛みを取り除くと言うよりも、癒してあげるといった感じです。

しかし今の治療法は検査がしっかりしていて患者さんの状態がわかり、それに対しての施術に理論があります。今まで治せなかった痛みやしびれなどの症状が、目に見えて良くなっていく。長年悩んでいた患者さんから「ありがとう!良くなった!」と言われるのがとても嬉しく思います。

 

現在はちゃたん整骨院以外にも、整体の専門学校の講師も務めさせて頂いております。

 

スタッフや患者さんに囲まれて楽しく仕事をできていると実感しています。

来ていただいた皆様の「健康」に最後まで携われるように精進してまいります。

 

 

副院長 宮城 匠

副院長 宮城 匠

役職
柔道整復師
出身
本部町瀬底島
誕生日
平成1年10月30日
学歴
北部農林高等学校卒業 鹿児島第一医療リハビリ専門学校卒業
趣味
野球 三線 お酒を飲む

治療家になったきっかけ

小さい頃から運動がすきで、地域のマラソン大会や、駅伝大会に出たり、体を動かすのが好きでした。特に好きだったのが野球でした。

小さい時から、実家のサトウキビ畑や、馬や牛やヤギの世話、草を刈ったり手伝いをしていたので、体力には自信がありました。

祖父祖母の畑の手伝いをしながら、小学校3年生頃から本格的に野球を始めました。

僕が通っていた学校が小規模校で、野球部に必ず入らないといけなくて、最初はしぶしぶしていたのですが、練習をしていく内に出来なかった事が出来る様になり、どんどん野球の楽しさに気づき、一生懸命打ち込むようになりました。

中学校になると野球をしながら、駅伝や陸上も並行してやっていて、陸上と野球シースンが重なると、朝は陸上の練習、終わったらすぐ野球の練習とハードでした。

当時、ケアの大切さを知らず、動かすだけ動かして酷使していたせいか、腰痛と右足首の痛みが出るようになりました。

テーピングや、痛み止めを飲んで誤魔化していましたが、その痛みがだんだんと酷くなってきて、痛みに耐えながら練習していたので、思うように動けず苦痛だったのを覚えています。

痛みで困っていた時に、監督に紹介してもらったのが整骨院でした。

最初は、「整骨院は何するのだろう?少し不安だな」なんて思っていました。初めは緊張していたものの、先生方が親身になり話を聞いてくれたり、今は何した方が良いなどアドバイスをしてくれたり、すごく心強くかったですし、落ち着いて施術を受けられ、安心して通えました。

高校になりもっと練習がハードになり、整骨院に行く時間もなく、整骨院に通えない日が多くなりました。そのため、練習中に一歩踏み出しただけで、激痛が出る様になりました。

痛みを我慢してやっていましたが、次第に練習ができなくなり、ケガしている為、レギュラーも外されて、精神的・肉体的にもかなり落ち込んでしまい「このまま野球やめようかな…」と思う様になり、すごく悩みました。

なかなか痛みが収まらなかったので、中学生の時に通っていた整骨院にまた来院しました。

当時は、何度も通うたびに、「ケガを早く治したいです」などと、色々言って凄く先生方を困らせていたかもしれません(笑)

その時は、不安感や焦る気持ちしかなく、気持ちだけ先走っていました。

先生が「焦る気持ちはわかるけど、必ず治るから心配しないで。頑張って身体良くしていこうね」と言ってくれました。治るから心配しないで、と言う言葉がすごく心強かったです。

整骨院に通い始めていくうちに、痛みも治まってきて徐々に動ける様になり、何より沈んでいた気持ちも明るくなっていたのが、自分でもわかるぐらい元気になりました。

先生方のお陰で、また野球が出来る様になり、野球の楽しさを思い出し、レギュラーも勝ち取る事が出来ました。当時の先生方には、心から感謝しています。

また、僕が高校3年の時に、祖父が脳梗塞になってしまい、右半身が思うように動けなくなりました。

昔からおじーちゃん・おばーちゃん子で、祖父の脳梗塞はすごくショックで「祖父を元気にしてあげたい、今よりも動けるようにしたい」と思うようになりました。

昔から、人の役に立つ仕事がしたいと思っていました。

当時の将来の夢は「造園師」になるのが目標でしたが、ケガや祖父の脳梗塞の経験をして「整骨院で働く仕事もあるんだ!こういう風に人助けできる良い仕事があるんだ!将来、僕も痛みで困っている人の心も体もケアして楽にしてあげたい」という思いがだんだん強くなり、今の仕事を目指しました。

高校の3年生の時に、進路の先生から「鹿児島県の第一医療リハビリ専門学校は、体験入学しているから、行ってみないか?」と言われ、自分の目でどういう事をするのか確認したい気持ちもあったので、体験をしてきました。

専門学校の先生方から、体の事や取り組みなど色々話を聞き、ここに入学したいと思い、高校を卒業後、鹿児島第一医療リハビリ専門学校で3年間専門分野を学び、柔道整復師免許を無事取得しました。勉強は専門だけあって難しく、今までで一番勉強したかもしれません(笑)

その後、卒業したのちそのまま鹿児島で6年半就職しました。

鹿児島の整骨院で働くにあたって、鹿児島の先生方に色々ご指導してもらい、実際の現場に出て、患者さんに触れて学ぶ事は多く、鹿児島での6年半ですごく成長できたと思います。

自分を成長させてくれて、鹿児島のスタッフはじめ、鹿児島の患者さん、自分と携わった人にすごく感謝しています。

鹿児島で働いている時から「痛みで困っている患者さんや、どうしたら楽に生活を送くれるか、痛みが再発しないようにはどうしたらいいか」と言う事を念頭に置き、健康に携わってきました。

いずれは沖縄に帰ってきて、沖縄の人を元気にしたいと言う気持ちが強かったです。

今、こうして沖縄の方々の健康に携われている事がすごく嬉しいです。

これからは、今まで学んだ知識や経験・考えなどを活かして、沖縄の人が元気になるように、サポート・お力になりたいと思います。

ちゃたん整骨院から患者さんを元気に致します。

知念 茉依香

知念 茉依香

役職
柔道整復師
出身
嘉手納町出身
誕生日
平成5年9月2日
学歴
沖縄統合医療学院 柔道整復師学科卒業
趣味
旅行 買い物

治療家になったきっかけ

 

 

私は、小さい頃から体を動かす事が好きで、家の中では遊ばず公園で友達と裸足になって遊んでいました!

小学生の時は、学校帰り雨が降ると傘は差さず裸足になりびちょびちょになりながら

遊んで帰っていたので今思うと少しやんちゃだったかもしれません。笑

元々体を動かすことが好きだったので色々なスポーツを経験してきました。

その中でも1番夢中になったのが小学校5年生の時に始めたテニスでした。

テニスの練習日は、週に1回でしたが学校が終わると家に帰ってすぐテニスコートに行き

友達と夜まで練習、土日は朝から夜までずっとテニスばっかりしていました。

テニス中心の生活は中学生になっても変わらず続いていました。

その成果もあり1年生の時から試合に出させてもらうことができました。

練習は厳しかったですが、毎日が楽しく充実していました。

 

 

中学2年生になり3年生が引退し、キャプテンになり自分たちの代で頑張ろう!と

同級生の部員は4人でしたが結果を残そうと頑張っていました。

子どもの頃からですが、運は良い方だと思っていて、くじびきなどで一等を当てた事が何回かあります。

でも、大事な所では発揮してくれないらしく、大事な大会の対戦相手は毎回強い学校を引いてしまいます。(笑)

頼りにはならなかったかもしれませんが、みんな文句を言わず一緒に頑張ってくれた

メンバーには、とても感謝しています。

 

先輩が引退して、最初の大会前に膝をケガし半月板を手術することになりました。

部員の人数が少なく、大会に出る人数がギリギリだったのでかなり焦りました。

最初は手術するかとても迷い、そのまま部活に参加しましたが思うように動けないと自分でも自覚がありすぐに手術をして、大会に間に合わせるためにリハビリに取り組みました。

でも、リハビリは楽しくないし練習は見ているだけか筋トレで正直全く楽しくなかったです(笑)

リハビリに行くのも嫌になっている時にリハビリを担当してくれた先生が

『 リハビリは楽しんでやらないと駄目だよ、一緒に頑張ろう! 』

と言ってくれた事がきっかけで 「頑張ろう!」 と思う事ができました。

リハビリの時も笑わせてくれたり、メニューを色々考えてくれて楽しく取り組めました。

このリハビリの先生がきっかけでこういう人の体をみて健康のお手伝いができるような仕事に興味を持ちました。

 

その後の体のケアなどで通った整骨院の先生にも、体のケアの仕方や痛みが再発しないようにとアドバイスを沢山教えてもらい、手術をして2週間程で無事大会にも出る事が出来ました!

整骨院の先生には、沢山のアドバイスをもらい自分の事の様に一緒に考えてくれました。

 

一緒に体を良くしていこうとしてくれているのがとても伝わりました。

体の状態もですが、気持ちの部分でもかなり助けて頂きました。

いつか自分もこの先生のように、沢山の方を体だけでなく気持ちの面でも支えることができる先生になりたいと思い、柔道整復師になろうと決心しました。

 

高校を選ぶ時もスポーツや体の勉強がしたかったので、地元のスポーツ系列のある高校に進学しました。

専門学校は、県外か県内が凄く悩みましたが、友人の誘いもあり沖縄にある沖縄統合医療学院に通いました。

2年生の時に、縁がありちゃたん整骨院でアルバイトをさせて頂き、健康になるためには何が大事なのか治療の技術だけでなく学校では学ぶことができない現場の雰囲気や接し方など沢山の事を学ぶことができました。

 

憧れていた柔道整復師の資格を所得することができ、

これからは、患者さんが痛みのない・そして再発せず楽しく好きな事ができる生活を送って頂けるようにお手伝いさせて頂きます!

山城 海理

山城 海理

役職
整体師
出身
北谷町
誕生日
平成10年8月19日
学歴
読谷高等学校 SOLA沖縄保健医療工学院 スポーツ整体・メディカルトレーナー学科
趣味
ハンドボール

治療家になったきっかけ

私は小さい頃から極度の人見知りで、人と話すのがとても苦手でした。心を許している友達としか話さない、遊ばないため「学校は楽しくないのか」と聞かれたこともあり、親はとても心配していたと思います。

 

中学校に入学し、姉がやっていたという理由でソフトボール部に入部しました。元々運動は苦手でしたが、練習をしていく内に技術が上達しているのを実感したり、チームメイトと一つになって勝つ喜びを知る事で、どんどんのめり込んでいきました。初めてホームランを打てたときは、嬉しさで泣きながら走った事を覚えています。(笑)

 

高校では、当時の私には未知のスポーツであったハンドボール部に入部しました。

どんなスポーツなのかイメージもつかないのに、友達に誘われたからと軽い気持ちで入ったのですが、学校にはハンドボールをするために通っていると言えるほど夢中になっていました。高校に入学して沢山の人と話したりしていく中で友達も増え、先輩方が引退して後にキャプテンを務めた事もあって、少しずつですが人見知りを改善する事ができました。

 

練習を続けていく中で自分でケアをする事が出来ず、足に痛みが出てきたので病院に行くと、「痛みが引くまで安静にしておいて。」と言われました。しかし、練習できない事が嫌だった私は動けない程の痛みではないと自分に言い聞かせ練習を続けました。その状況に気づいてくれた顧問の先生に紹介して頂いたことで、整骨院に通い始めました。

 

整骨院の先生方は「なるべく休みたくない」「早く治したい」という私の話をしっかりと聞いてくださり、自分でできるケアの仕方や出来る範囲のトレーニングを教えて頂き、安静にするだけでなくどうしたら早く復帰できるかというところまで一緒に考えてくれました。

 

このことがきっかけで「将来色々な方の健康に携わりたい、自分の手で治せる人になりたい」と思い、卒業後は実技の授業が多く、ボランティア活動も盛んな専門学校へ進学しました。

 

学校では主にスポーツ整体を学び、他にもウエイトトレーニングや運動指導、アロマセラピーなど学びました。

 

 授業の一環であるインターンシップをちゃたん整骨院で受け入れていただいた事で、初めてこの治療法を知りました。学校で学んでいる技術とは正反対で、驚いたと同時に学びたいと強く思い、希望したことで働かさせていただくことになりました。

 

これから患者さんの体の痛みの改善だけでなく、一人一人に寄り添って心も元気にしていけるよう精進し、健康のお手伝いをさせていただきます。

目島 優子

目島 優子

役職
鍼灸師
出身
宜野湾市
誕生日
昭和50年11月1日
学歴
普天間高等学校・沖縄統合医療学院鍼灸学科
趣味
ドライブ・スポーツ観戦

治療家になったきっかけ

私は四姉妹の三女として生まれ、幼いころは髪が栗色だったので、よくハーフと間違われたものです。今その面影は微塵もありませんが・・・

小学校では4年生から友達に誘われミニバスケット部に入り、すぐにバスケの虜になった私は中学~高校、一般と思う存分バスケットを楽しみました。現在は試合観戦を趣味としています。

高校を卒業後、ビジネス系の専門学校を経て20代はスポーツ用品製造卸メーカーの沖縄営業所に入社し、電話とFAXに追われる日々でしたが10年間お世話になりました。

次の職場ではネット通販のカスタマー対応の業務につき、5年間お世話になりました。前職と比べても残業が多く、午前様が続き体力的にキツイ日もありましたが、気の合う同僚に恵まれたから笑ってやってこれた感じです。

その5年の間で30代半ばに差しかかり、このペースの働き方をこれから先の40代~50代と続けていくのか・・・と考える様になり『やりたいことは?』、『どう働いて生きていきたい?』と自問自答のさなか、県内初の鍼灸学科開設の新聞広告を見つけた時に『これだ!』と心が動きました。

それまで自分自身、整骨院に通ったり鍼灸を受けたこともなかったのですが、亡くなった祖父が友人や知人に頼まれて『ヤーチュウ(お灸)』をして喜ばれていたことや、祖母から『あんたはアンマ(マッサージ)させたら上手だね』と褒められたことなど思い出し、人と直接関わって『ありがとう』と喜ばれることを仕事にしたいと思う気持ちが膨らみ、鍼灸学科夜間部へ通う事を決めました。

働きながらの学業はなかなか大変でしたが、3年間はあっという間で充実していました。30代最後の年に念願の鍼灸師の資格を取得したのですが、沖縄で馴染みのない鍼灸で身を立てていくことの難しさに直面。卒後すぐにクリニックに勤務しマッサージ業や個人で鍼灸の往診をしていましたが、1年経たない間に家族が病にかかり、闘病生活の看病も経験しました。

これまでの経験から、病(不調)の始まりは不眠にあると考え、私は睡眠の質を高める治療家になりたいと思っています。簡単な道ではありませんが、これから出会う患者さん1人1人のお力になれるよう努力して参ります。

 

新﨑 勝吾

新﨑 勝吾

役職
整体師
出身
浦添市
誕生日
昭和52年10月28日生まれ
学歴
浦添商業高等学校卒業
趣味
野球観戦・釣り・晩酌

治療家になったきっかけ

 

浦添市で生まれ、小さな頃は近所のお兄ちゃんお姉ちゃんたちと遊びながら、よく泣かされて帰る「ナチブー(泣き虫)」な子でした。

そんな自分をいつも可愛がってくれたのが母方のおばあちゃんでした。小学校に入学する前は毎日のように「一銭マチャー(駄菓子屋)」に連れて行ってくれたり、1年生の時は毎日、学校への送り迎えをしてくれました。

後に介護の世界へ飛び込んでいけたのも、おばあちゃんの影響があったのかもしれません。

 

小学校4年生からは友人の誘いで野球を始めました。始めた当初はなかなか上手くならず、恥ずかしい思いをしたのを今でも覚えています。

それでも5年生の時には外野手として大会に出場でき、浦添地区の大会で優勝することができました。

いま現在でも、その当時のメンバーとは子供たちを交えた良い関係が続いています。

 

中学では一度、野球部に入部したのですがハンドボールに興味を持ち、ハンド部へ。しかし、2年生の夏休みの練習中、ジャンプしてシュートを決め、着地した場所にはなんとボールが・・・!!

そのままボールに乗っかってしまい足をひねり、複雑骨折・・・手術後2ヶ月ほど、リハビリ生活をすることになりました。

いま思えば、その時のケガをした体験や、リハビリスタッフにお世話になった事も治療家を目指すきっかけになっているのかもしれません。

 

高校では特にやりたいことも見つけられず、バイトに明け暮れていました。

卒業後もただ、楽しく仕事ができればいいと思い、友人数名と同じ会社に就職。数年が過ぎたころ、何気ない友人との会話の中で「自分の将来はこのままでいいのかな?」と考えるようになりました。

 

そこで以前から興味のあった医療、福祉の世界で働きたいと思い、介護の世界へ。

ヘルパー業務、夜勤、デイケア、デイサービスと多くを学ばせていただき、約15年間、日々楽しく高齢者の方々と過ごしていました。

そんな中で数多くの喜び、感謝の言葉を頂いてきましたが、「本当に自分は皆様の力になれているのか?」「皆様の喜びに繋がっているのか?」と思うようになりました。

「デイサービスに来るのは楽しいけど、膝が痛くて大変・・・」「腰が痛くて夜も眠れない・・・」また、私生活でも子供の野球に携わる中で、「肩、肘が痛い・・・」「足が痛い・・・」と話す子供達がいて、自分の周囲で身体的な不調の言葉をよく耳にするようになっていました。

それからかなり悩み、考えた結果「より多くの方に、自分らしく元気に明るく生活してほしい!!」「自分自身が成長することで何かお手伝いができないか?」と一念発起し、治療家を目指し転職!!

現在に至っております。

 

まだまだ未熟ものですが、皆様の力をお借りしながら日々精進してまいります。

より多くの方々と、より多くの喜びを共感できるようにお手伝いさせていただきます。

屋良 一

屋良 一

役職
柔道整復師
出身
北谷町
誕生日
昭和58年5月16日
学歴
沖縄統合医療学院卒業
趣味
スポーツ観戦(サッカー、バスケット、高校野球)

治療家になったきっかけ

沖縄県北谷町で一人っ子の長男として生まれました。

両親が40代後半に授かった子どもで、両親や親戚から凄く喜ばれたと聞いております。

小さい頃は、父とよくプロ野球の巨人戦を見て、公園や家の庭でキャッチボールをしたりして遊んでもらっていました。小さい頃の夢は「プロ野球選手」になることでしたが、小学校に進むと周りの友達が、バスケ部に入部してバスケットをすることになりました。そこで、プロ野球選手の夢は途絶えてしまいました。(笑)

バスケットを小学校~高校卒業するまで大きなケガをすることもなく続ける事が出来ました。私は周りのメンバーにも恵まれて、小中高校とも県大会でベスト4以上の結果を残す事が出来ました。また、高校時代には一つ上の先輩方と全国大会にも出場してベスト8までたどり着きました。まるで、夢のような時間を過ごすことが出来ました。チーム一丸になって何かを成し遂げることがこれほど素晴らしいことなんだど感じることが出来ました。ハードな練習にも耐えて苦しい時間しかなかったのですが、試合に勝ったときに報われるときの喜びは何事にも耐え難いものであります。これも、父母やコーチ、監督、チームメイトのフォローがあったからこそだと思います。

大学を卒業して、社会人になって色々な職を転々としました。バスケットをしてた時みたいに熱くなるものがなかなかありませんでした。「やりたいことは?」「どう働いていきたい?」と自問自答するような日々を送っていたころ、友人が整骨院で働いている事を聞ききました。その時は、正直、整骨院はどういう所何だろうと言う感じでした。今まで、大きいケガもしたことなく、整形外科や整骨院にもお世話になったことがなかったのです。

その時友人の目が凄い印象的でした。凄いイキイキとした目をして、楽しそうに整骨院での仕事を話してくれたのです。それで、私も困っている人の助けになりたいと思い、30代前半から柔道整復師の免許を取得することが出来る専門学校に3年間通いました。朝から夕方までは整骨院でバイトをしながら、夜は学校に通うという日々をずっと送り、無事に免許を取る事が出来ました。

学生時代に整骨院で働いていましたが、その当時の治療に疑問を持ちながら日々、仕事をしていました。なぜなら学校で学ぶ問診や検査など行わずにすぐに患者さんに痛い所を聞いて、その場所をマッサージして、電気治療をするという治療になっていたからです。どうして、学校で学ぶことが行われないのかと常に疑問に思っていました。その疑心暗鬼のまま、患者さんと接していく事は患者さんに対しても失礼なことだと思い、一旦整骨院の業界からは離れて3年と少し介護施設の方で機能訓練指導員として働いていました。

介護施設では、元気なおじいちゃん・おばあちゃんと一緒にレクや体操をしたり、食事の際に食べ物を誤嚥しないように正しい姿勢での座り方を介護職員に教えていました。また、寝たきりの方には褥瘡が出来ないようにとベッドでの身体の位置や、クッションを利用して呼吸がしやすいようにするなど介護職員と一緒になって勉強して工夫をしたりしました。施設で働いた事で整骨院とは違った視点で身体の事を勉強できたと思っています。

施設で働いている時から、おじいちゃん・おばあちゃんの身体を触りながら、また整骨院の業界へと戻りたい熱意が出ていました。しかし、今度戻る時は問診、検査など人の身体をしっかり診ていくところにしようと決めていました。戻るまえにインターネットで技術の勉強の為、検索したところ気になる治療がヒットしました。そこの治療のやり方が沖縄の整骨院でもあればなーと思っていました。

整骨院で働くために募集しているところを探していると、なんとその治療をやっている整骨院を見つけました。それが、現在のちゃたん整骨院になります。

ちゃたん整骨院は問診から検査、施術もさることながら、患者さんに対しての接客や気遣い、心配りなどもしっかりしていて働きながら凄い感銘を受けました。

私はまだまだ、未熟者ですがここちゃたん整骨院でさまざまな事を学び、治療家・人として成長していきながら、より多くの患者さの健康へのサポートが出来る様に精進していきたいと思います。

 

金城 利幸

金城 利幸

役職
鍼灸師
出身
沖縄市
誕生日
昭和59年12月1日
学歴
北谷高校卒業、四国医療専門学校鍼灸科卒業
趣味
漫画、アニメ、映画鑑賞、晩酌

治療家になったきっかけ

小さい頃は雨が降ったり台風が来ると、テンションが上がり外に出て走り回る子でした。

よく洋服が赤土まみれになっていたのを覚えています。今考えると洗濯大変だっただろうと、迷惑かけたと思います。

小学校はバスケ部に入り、ルールも余りわからず楽しくやっていました(笑)

中学~高校では部活を禁止され、よく公園でバスケットをしたり、エイサー活動をしていました。

高校卒業後は、何がしたいのかをわからず、親の言う通りパソコンを習いながらバイトをする日々を過ごしていました。

しかし、パソコンを4時間も見つめていると頭痛がし腰も痛くなりました。

このままこの職業でやっていけるのか不安になり、何かしたいことは無いのか改めて考えました。

そこで、ふと思い出したのが母や叔母をマッサージした時に喜ばれた事でした。

そういう職業はないかと調べて整体の学校に行き、卒業後に整骨院で働き始めました。

整骨院で業務をこなしていると、要介護の患者さんの車いすからのベット移乗がちゃんと出来る人が居なかった事に驚きました。

色々な患者さんに対応するには介護の方も勉強したいと思い、整骨院を辞め介護職に就き働きました。

介護の仕事は楽しかったのですが、色んな疾患を持っている利用者と接していくうちに、表面ではなく深くアプローチできることはないかと考えるようになりました。

そこで、頭に浮かんだのは鍼灸でした。

介護職を辞め、まだ沖縄に鍼灸の学校が無かったので、内地の鍼灸の学校に通いました。

卒業後は沖縄に帰って整骨院で鍼灸師として働いていましたが、整形外科で鍼灸師の募集があり、習ったことのない鍼のやり方を学べるということで、整形外科の鍼灸師として転職し働いていました。

整形外科を閉院することになり、就職活動をしていてちゃたん整骨院を知りました。

ここは、僕が知っている整骨院とは違う技術があり学びたいと思い、働かせて頂くことになりました。

これからも色々学び、皆様に寄り添いサポートし、頼られる存在になれるよう精進していきたいと思います。

まだまだ、未熟ですがよろしくお願い致します。

野原 杏里

野原 杏里

役職
整体師
出身
石垣島
誕生日
平成13年11月27日
学歴
八重山高校卒業、SOLA沖縄保険医療工学院 スポーツ整体・メディカルトレーナー学科卒業
趣味
音楽聴くこと、ドラマ鑑賞

治療家のなったきっかけ

三姉妹の末っ子ということもあり、小さい頃は甘えん坊ですぐ泣き虫だったのでいろんな方に迷惑かけてたと思います...(笑)

中学時代は姉が入ってたということもあり、吹奏楽部として活動しました。半年はホルンを担当していて残りの期間はトランペットを担当していました。練習するたびに上達していくので楽器を演奏するのが嬉しかったのを覚えています。人の後ろばかりついていた私ですが、中学3年の時、副部長を任されました。人に指示したり人の前に立つのは初めてだったのでたくさん悩みましたが、周りのサポートがあり最後まで果たすことができました。

高校時代は、友達に誘われて男子バスケットボール部のマネージャーとして活動しました。

毎日迫力のあるプレーを見れて楽しかったです。そんな楽しい日々の中でも重い荷物を持ったり、気配りをしないといけないので大変でしたが、私が最後までやってこれたのは選手達が試合で頑張っている姿や試合で勝てた時など、何より嬉しかったのは部員からの感謝の言葉です。

マネジャーを経験したことで次第に人の役に立つ仕事がしたいと思うようになりました。

整体師になろうと思ったきっかけは母が長年肩こりに悩んでいて、自分もマッサージしてあげていたのですが、やはりちゃんと知識も技術もないのでなかなか治らず、しっかり体のことについて学び母のように苦しんでいる人の役に立ちたいと思い整体師を目指しました。

専門学校では、指圧や矯正、マッサージだけでなく、トレーニングやアロマなどを学びました。

アロマなどリラクゼーションのことを学校で学んでいくうちにリラクゼーションの道に進みたいと少し思うようになっていました。

しかし、インターンシップ先の整骨院で患者さんの症状が改善していくのをみて、結果が出る整体の良さを改めて実感し、根本的なところから治療していきたいと思い、整体師になろうと決めました。

これから患者さんに寄り添い、笑顔にできるような整体師になれるよう一生懸命がんばります!