エリアマネージャー 宮城 匠
- 役職
- 柔道整復師
- 趣味
- 野球 三線 お酒を飲む
治療家になったきっかけ
小さい頃から運動がすきで、地域のマラソン大会や、駅伝大会に出たり、体を動かすのが好きでした。特に好きだったのが野球でした。
小さい時から、実家のサトウキビ畑や、馬や牛やヤギの世話、草を刈ったり手伝いをしていたので、体力には自信がありました。
祖父祖母の畑の手伝いをしながら、小学校3年生頃から本格的に野球を始めました。
僕が通っていた学校が小規模校で、野球部に必ず入らないといけなくて、最初はしぶしぶしていたのですが、練習をしていく内に出来なかった事が出来る様になり、どんどん野球の楽しさに気づき、一生懸命打ち込むようになりました。
中学校になると野球をしながら、駅伝や陸上も並行してやっていて、陸上と野球シースンが重なると、朝は陸上の練習、終わったらすぐ野球の練習とハードでした。
当時、ケアの大切さを知らず、動かすだけ動かして酷使していたせいか、腰痛と右足首の痛みが出るようになりました。
テーピングや、痛み止めを飲んで誤魔化していましたが、その痛みがだんだんと酷くなってきて、痛みに耐えながら練習していたので、思うように動けず苦痛だったのを覚えています。
痛みで困っていた時に、監督に紹介してもらったのが整骨院でした。
最初は、「整骨院は何するのだろう?少し不安だな」なんて思っていました。初めは緊張していたものの、先生方が親身になり話を聞いてくれたり、今は何した方が良いなどアドバイスをしてくれたり、すごく心強くかったですし、落ち着いて施術を受けられ、安心して通えました。
高校になりもっと練習がハードになり、整骨院に行く時間もなく、整骨院に通えない日が多くなりました。そのため、練習中に一歩踏み出しただけで、激痛が出る様になりました。
痛みを我慢してやっていましたが、次第に練習ができなくなり、ケガしている為、レギュラーも外されて、精神的・肉体的にもかなり落ち込んでしまい「このまま野球やめようかな…」と思う様になり、すごく悩みました。
なかなか痛みが収まらなかったので、中学生の時に通っていた整骨院にまた来院しました。
当時は、何度も通うたびに、「ケガを早く治したいです」などと、色々言って凄く先生方を困らせていたかもしれません(笑)
その時は、不安感や焦る気持ちしかなく、気持ちだけ先走っていました。
先生が「焦る気持ちはわかるけど、必ず治るから心配しないで。頑張って身体良くしていこうね」と言ってくれました。治るから心配しないで、と言う言葉がすごく心強かったです。
整骨院に通い始めていくうちに、痛みも治まってきて徐々に動ける様になり、何より沈んでいた気持ちも明るくなっていたのが、自分でもわかるぐらい元気になりました。
先生方のお陰で、また野球が出来る様になり、野球の楽しさを思い出し、レギュラーも勝ち取る事が出来ました。当時の先生方には、心から感謝しています。
また、僕が高校3年の時に、祖父が脳梗塞になってしまい、右半身が思うように動けなくなりました。
昔からおじーちゃん・おばーちゃん子で、祖父の脳梗塞はすごくショックで「祖父を元気にしてあげたい、今よりも動けるようにしたい」と思うようになりました。
昔から、人の役に立つ仕事がしたいと思っていました。
当時の将来の夢は「造園師」になるのが目標でしたが、ケガや祖父の脳梗塞の経験をして「整骨院で働く仕事もあるんだ!こういう風に人助けできる良い仕事があるんだ!将来、僕も痛みで困っている人の心も体もケアして楽にしてあげたい」という思いがだんだん強くなり、今の仕事を目指しました。
高校の3年生の時に、進路の先生から「鹿児島県の第一医療リハビリ専門学校は、体験入学しているから、行ってみないか?」と言われ、自分の目でどういう事をするのか確認したい気持ちもあったので、体験をしてきました。
専門学校の先生方から、体の事や取り組みなど色々話を聞き、ここに入学したいと思い、高校を卒業後、鹿児島第一医療リハビリ専門学校で3年間専門分野を学び、柔道整復師免許を無事取得しました。勉強は専門だけあって難しく、今までで一番勉強したかもしれません(笑)
その後、卒業したのちそのまま鹿児島で6年半就職しました。
鹿児島の整骨院で働くにあたって、鹿児島の先生方に色々ご指導してもらい、実際の現場に出て、患者さんに触れて学ぶ事は多く、鹿児島での6年半ですごく成長できたと思います。
自分を成長させてくれて、鹿児島のスタッフはじめ、鹿児島の患者さん、自分と携わった人にすごく感謝しています。
鹿児島で働いている時から「痛みで困っている患者さんや、どうしたら楽に生活を送くれるか、痛みが再発しないようにはどうしたらいいか」と言う事を念頭に置き、健康に携わってきました。
いずれは沖縄に帰ってきて、沖縄の人を元気にしたいと言う気持ちが強かったです。
今、こうして沖縄の方々の健康に携われている事がすごく嬉しいです。
これからは、今まで学んだ知識や経験・考えなどを活かして、沖縄の人が元気になるように、サポート・お力になりたいと思います。
ちゃたん鍼きゅう整骨院+から患者さんを元気に致します。
院長 屋良 一
- 役職
- 柔道整復師
- 趣味
- スポーツ観戦(サッカー、バスケット、高校野球)
治療家になったきっかけ
沖縄県北谷町で一人っ子の長男として生まれました。
両親が40代後半に授かった子どもで、両親や親戚から凄く喜ばれたと聞いております。
小さい頃は、父とよくプロ野球の巨人戦を見て、公園や家の庭でキャッチボールをしたりして遊んでもらっていました。小さい頃の夢は「プロ野球選手」になることでしたが、小学校に進むと周りの友達が、バスケ部に入部してバスケットをすることになりました。そこで、プロ野球選手の夢は途絶えてしまいました。(笑)
バスケットを小学校~高校卒業するまで大きなケガをすることもなく続ける事が出来ました。私は周りのメンバーにも恵まれて、小中高校とも県大会でベスト4以上の結果を残す事が出来ました。また、高校時代には一つ上の先輩方と全国大会にも出場してベスト8までたどり着きました。まるで、夢のような時間を過ごすことが出来ました。チーム一丸になって何かを成し遂げることがこれほど素晴らしいことなんだど感じることが出来ました。ハードな練習にも耐えて苦しい時間しかなかったのですが、試合に勝ったときに報われるときの喜びは何事にも耐え難いものであります。これも、父母やコーチ、監督、チームメイトのフォローがあったからこそだと思います。
大学を卒業して、社会人になって色々な職を転々としました。バスケットをしてた時みたいに熱くなるものがなかなかありませんでした。「やりたいことは?」「どう働いていきたい?」と自問自答するような日々を送っていたころ、友人が整骨院で働いている事を聞ききました。その時は、正直、整骨院はどういう所何だろうと言う感じでした。今まで、大きいケガもしたことなく、整形外科や整骨院にもお世話になったことがなかったのです。
その時友人の目が凄い印象的でした。凄いイキイキとした目をして、楽しそうに整骨院での仕事を話してくれたのです。それで、私も困っている人の助けになりたいと思い、30代前半から柔道整復師の免許を取得することが出来る専門学校に3年間通いました。朝から夕方までは整骨院でバイトをしながら、夜は学校に通うという日々をずっと送り、無事に免許を取る事が出来ました。
学生時代に整骨院で働いていましたが、その当時の治療に疑問を持ちながら日々、仕事をしていました。なぜなら学校で学ぶ問診や検査など行わずにすぐに患者さんに痛い所を聞いて、その場所をマッサージして、電気治療をするという治療になっていたからです。どうして、学校で学ぶことが行われないのかと常に疑問に思っていました。その疑心暗鬼のまま、患者さんと接していく事は患者さんに対しても失礼なことだと思い、一旦整骨院の業界からは離れて3年と少し介護施設の方で機能訓練指導員として働いていました。
介護施設では、元気なおじいちゃん・おばあちゃんと一緒にレクや体操をしたり、食事の際に食べ物を誤嚥しないように正しい姿勢での座り方を介護職員に教えていました。また、寝たきりの方には褥瘡が出来ないようにとベッドでの身体の位置や、クッションを利用して呼吸がしやすいようにするなど介護職員と一緒になって勉強して工夫をしたりしました。施設で働いた事で整骨院とは違った視点で身体の事を勉強できたと思っています。
施設で働いている時から、おじいちゃん・おばあちゃんの身体を触りながら、また整骨院の業界へと戻りたい熱意が出ていました。しかし、今度戻る時は問診、検査など人の身体をしっかり診ていくところにしようと決めていました。戻るまえにインターネットで技術の勉強の為、検索したところ気になる治療がヒットしました。そこの治療のやり方が沖縄の整骨院でもあればなーと思っていました。
整骨院で働くために募集しているところを探していると、なんとその治療をやっている整骨院を見つけました。それが、現在のちゃたん鍼きゅう整骨院+になります。
ちゃたん鍼きゅう整骨院+は問診から検査、施術もさることながら、患者さんに対しての接客や気遣い、心配りなどもしっかりしていて働きながら凄い感銘を受けました。
私はまだまだ、未熟者ですがここちゃたん鍼きゅう整骨院+でさまざまな事を学び、治療家・人として成長していきながら、より多くの患者さの健康へのサポートが出来る様に精進していきたいと思います。
新﨑 勝吾
- 役職
- 整体師
- 趣味
- 野球観戦・釣り・晩酌
治療家になったきっかけ
浦添市で生まれ、小さな頃は近所のお兄ちゃんお姉ちゃんたちと遊びながら、よく泣かされて帰る「ナチブー(泣き虫)」な子でした。
そんな自分をいつも可愛がってくれたのが母方のおばあちゃんでした。小学校に入学する前は毎日のように「一銭マチャー(駄菓子屋)」に連れて行ってくれたり、1年生の時は毎日、学校への送り迎えをしてくれました。
後に介護の世界へ飛び込んでいけたのも、おばあちゃんの影響があったのかもしれません。
小学校4年生からは友人の誘いで野球を始めました。始めた当初はなかなか上手くならず、恥ずかしい思いをしたのを今でも覚えています。
それでも5年生の時には外野手として大会に出場でき、浦添地区の大会で優勝することができました。
いま現在でも、その当時のメンバーとは子供たちを交えた良い関係が続いています。
中学では一度、野球部に入部したのですがハンドボールに興味を持ち、ハンド部へ。しかし、2年生の夏休みの練習中、ジャンプしてシュートを決め、着地した場所にはなんとボールが・・・!!
そのままボールに乗っかってしまい足をひねり、複雑骨折・・・手術後2ヶ月ほど、リハビリ生活をすることになりました。
いま思えば、その時のケガをした体験や、リハビリスタッフにお世話になった事も治療家を目指すきっかけになっているのかもしれません。
高校では特にやりたいことも見つけられず、バイトに明け暮れていました。
卒業後もただ、楽しく仕事ができればいいと思い、友人数名と同じ会社に就職。数年が過ぎたころ、何気ない友人との会話の中で「自分の将来はこのままでいいのかな?」と考えるようになりました。
そこで以前から興味のあった医療、福祉の世界で働きたいと思い、介護の世界へ。
ヘルパー業務、夜勤、デイケア、デイサービスと多くを学ばせていただき、約15年間、日々楽しく高齢者の方々と過ごしていました。
そんな中で数多くの喜び、感謝の言葉を頂いてきましたが、「本当に自分は皆様の力になれているのか?」「皆様の喜びに繋がっているのか?」と思うようになりました。
「デイサービスに来るのは楽しいけど、膝が痛くて大変・・・」「腰が痛くて夜も眠れない・・・」また、私生活でも子供の野球に携わる中で、「肩、肘が痛い・・・」「足が痛い・・・」と話す子供達がいて、自分の周囲で身体的な不調の言葉をよく耳にするようになっていました。
それからかなり悩み、考えた結果「より多くの方に、自分らしく元気に明るく生活してほしい!!」「自分自身が成長することで何かお手伝いができないか?」と一念発起し、治療家を目指し転職!!
現在に至っております。
まだまだ未熟ものですが、皆様の力をお借りしながら日々精進してまいります。
より多くの方々と、より多くの喜びを共感できるようにお手伝いさせていただきます。
金城 利幸
- 役職
- 鍼灸師
- 趣味
- 漫画、アニメ、映画鑑賞、晩酌
治療家になったきっかけ
小さい頃は雨が降ったり台風が来ると、テンションが上がり外に出て走り回る子でした。
よく洋服が赤土まみれになっていたのを覚えています。今考えると洗濯大変だっただろうと、迷惑かけたと思います。
小学校はバスケ部に入り、ルールも余りわからず楽しくやっていました(笑)
中学~高校では部活を禁止され、よく公園でバスケットをしたり、エイサー活動をしていました。
高校卒業後は、何がしたいのかをわからず、親の言う通りパソコンを習いながらバイトをする日々を過ごしていました。
しかし、パソコンを4時間も見つめていると頭痛がし腰も痛くなりました。
このままこの職業でやっていけるのか不安になり、何かしたいことは無いのか改めて考えました。
そこで、ふと思い出したのが母や叔母をマッサージした時に喜ばれた事でした。
そういう職業はないかと調べて整体の学校に行き、卒業後に整骨院で働き始めました。
整骨院で業務をこなしていると、要介護の患者さんの車いすからのベット移乗がちゃんと出来る人が居なかった事に驚きました。
色々な患者さんに対応するには介護の方も勉強したいと思い、整骨院を辞め介護職に就き働きました。
介護の仕事は楽しかったのですが、色んな疾患を持っている利用者と接していくうちに、表面ではなく深くアプローチできることはないかと考えるようになりました。
そこで、頭に浮かんだのは鍼灸でした。
介護職を辞め、まだ沖縄に鍼灸の学校が無かったので、内地の鍼灸の学校に通いました。
卒業後は沖縄に帰って整骨院で鍼灸師として働いていましたが、整形外科で鍼灸師の募集があり、習ったことのない鍼のやり方を学べるということで、整形外科の鍼灸師として転職し働いていました。
整形外科を閉院することになり、就職活動をしていてちゃたん鍼きゅう整骨院+を知りました。
ここは、僕が知っている整骨院とは違う技術があり学びたいと思い、働かせて頂くことになりました。
これからも色々学び、皆様に寄り添いサポートし、頼られる存在になれるよう精進していきたいと思います。
まだまだ、未熟ですがよろしくお願い致します。
野原 杏里
- 役職
- 整体師
- 趣味
- 音楽聴くこと、ドラマ鑑賞
治療家のなったきっかけ
三姉妹の末っ子ということもあり、小さい頃は甘えん坊ですぐ泣き虫だったのでいろんな方に迷惑かけてたと思います...(笑)
中学時代は姉が入ってたということもあり、吹奏楽部として活動しました。半年はホルンを担当していて残りの期間はトランペットを担当していました。練習するたびに上達していくので楽器を演奏するのが嬉しかったのを覚えています。人の後ろばかりついていた私ですが、中学3年の時、副部長を任されました。人に指示したり人の前に立つのは初めてだったのでたくさん悩みましたが、周りのサポートがあり最後まで果たすことができました。
高校時代は、友達に誘われて男子バスケットボール部のマネージャーとして活動しました。
毎日迫力のあるプレーを見れて楽しかったです。そんな楽しい日々の中でも重い荷物を持ったり、気配りをしないといけないので大変でしたが、私が最後までやってこれたのは選手達が試合で頑張っている姿や試合で勝てた時など、何より嬉しかったのは部員からの感謝の言葉です。
マネジャーを経験したことで次第に人の役に立つ仕事がしたいと思うようになりました。
整体師になろうと思ったきっかけは母が長年肩こりに悩んでいて、自分もマッサージしてあげていたのですが、やはりちゃんと知識も技術もないのでなかなか治らず、しっかり体のことについて学び母のように苦しんでいる人の役に立ちたいと思い整体師を目指しました。
専門学校では、指圧や矯正、マッサージだけでなく、トレーニングやアロマなどを学びました。
アロマなどリラクゼーションのことを学校で学んでいくうちにリラクゼーションの道に進みたいと少し思うようになっていました。
しかし、インターンシップ先の整骨院で患者さんの症状が改善していくのをみて、結果が出る整体の良さを改めて実感し、根本的なところから治療していきたいと思い、整体師になろうと決めました。
これから患者さんに寄り添い、笑顔にできるような整体師になれるよう一生懸命がんばります!
高屋 和樹
- 役職
- 整体師
- 趣味
- スポーツ観戦 アニメ・映画観賞
治療家になったきっかけ
小学三年生の時に友達に誘われて野球を始めました。最初はルールも分からず適当にボールを投げたり、右と左どこに打っていいのかも分からないままバットを振って楽しくやっていました。4年生、5年生と徐々に上がるにつれてルールも分かり、上達していることに気づいてもっと野球の楽しさを知る事が出来ました。
中学でも野球をしましたがそこまで強くなかったので最後の大会は初戦敗退で終わりました。その後は高校受験に向けて受験生として勉強シーズンがやってくるのですが、私は勉強が大嫌いで夏休みの宿題も残り一週間でやり始めるくらい大嫌いでした。そんな私が勉強の時間を少しでも減らすにはどうしたらいいのか考えてみるとあることを思いつきました。それはラグビー同好会に入ることです。そこには後輩1人が毎日練習をしていたのでその子の力になりたい(勉強したくない)と思い、部活を引退した同学年の友達を集めラグビーをすることにしました。そのおかげで勉強の時間を減らすことが出来ました。もちろんラグビーをするのも初めてでルールも前にボールを投げてはいけない以外は分からないまま始めました。でも、運動神経は良い方でしたのでラグビーU15沖縄代表に選出されました。九州大会で県外に行く予定でしたが、台風が来てしまい大会に参加出来ませんでした。幻のU15としてラグビ―生活が終わりました。
高校では3年間野球を続けました。あと、母親は学校に関して厳しかったので毎日学校に行けと言われ、渋々言われた通りに行っていると気づいた時には12年間皆勤賞を貰う事が出来ました。今でも母親には感謝しています。
卒業後は福岡のリゾート&スポーツ専門学校に行きました。そこでは体の仕組みを習い、それを活かして一番の悩みである体の歪みや、自律神経を整えてあげたいという思いからそういう仕事をしようと目指しました。また、中学時代に腰と肩を痛め悔しい思いをしたこともあり、より一層そういう人達の為に役に立ちたいという想いが強くなりました。皆様のお力になれるよう一生懸命サポートさせて頂きますのでよろしくお願い致します。