スタッフ紹介

兼城 和馬

兼城 和馬

役職
院長
出身
うるま市出身
誕生日
平成2年6月24日生まれ
学歴
具志川高校卒業、沖縄統合医療学院柔道整復科卒業
趣味
飲み会、筋トレ 読書 海外ドラマ鑑賞

治療家になったきっかけ

沖縄県うるま市で4人兄弟の末っ子として生まれました。

今では感情を表に出さない温厚な性格ですが、幼少期はおしゃべりの多い子だったようです。

小学3年生から高校までサッカーに明け暮れていました。

サッカーをしていましたが長距離を走るのが苦手でした。練習で走る事が多かったですがとても苦痛でした。

もっとうまくなりたい!活躍したい!と言う事を胸に、がむしゃらに練習をしていました。

よく走って、よく食べてということをコツコツ続けると、体も他の子よりも大きく、走る事も苦にならなくなり、地区の代表選手までなる事ができました。

部活動で培った精神力は今でも活きていると思います。

学生時代には友達にも恵まれて、現在も長い付き合いをさせてもらっています。

友達の結婚式のたびに、なぜか僕が余興を頼まれることが多くいつも頭を悩まされますが、頼りにされることに嬉しく思います。

高校生の時、進路を決める際に僕は迷いなく「整骨院の先生になりたい!」と思いました。というのも学生時代に腰を傷めて、お世話になっていた整骨院の先生達がみんな笑顔で活き活きと仕事をしている事を見ていたからです。

こんなに楽しそうに、そして感謝される仕事をしてみたいと思い、専門学校に入学しました。

専門学校に行きながら、整骨院で助手として働かせてもらいました。

そこでは、電気をあてる・マッサージをする・ストレッチをする・マッサージ機にのってもらうという事を、流れ作業のようにこなしていました。

「これで本当に治るのか?」という疑問を抱えて仕事をしていました。

転機があったのは、現在の治療法に出会った事でした。

以前はいかに気持ちよくマッサージをするか、という事をしていました。しかし今の治療法は検査がしっかりしていて患者さんの状態がわかり、それに対しての施術に理論があります。今まで全然治せなかった痛みやしびれなどの症状が、目に見えて良くなっていく。長年悩んでいた患者さんから「ありがとう!良くなった!」と言われるのがとても嬉しく思います。

今では、スタッフや患者さんに囲まれて、楽しく仕事をできていると実感しています。また整体の専門学院の沖縄校・校長として技術指導にも携わらせて頂いています。

当院に来ていただいた患者さんの悩みが解消できるように、日々成長していきたいと思います。

知念 茉依香

知念 茉依香

役職
柔道整復師
出身
嘉手納町出身
誕生日
平成5年9月2日
学歴
沖縄統合医療学院 柔道整復師学科卒業
趣味
旅行 買い物

治療家になったきっかけ

私は、小さい頃から体を動かす事が好きで、家の中では遊ばず公園で友達と裸足になって遊んでいました!

小学生の時は、学校帰り雨が降ると傘は差さず裸足になって遊んで帰っていたので今思おうと少しやんちゃだったかもしれません。笑

体を動かすことがすきだったので色々なスポーツを経験してきました。

その中でも1番夢中になったのが小学校5年生の時に始めたテニスでした。

テニスの練習日は、週に1回でしたが学校が終わると家に帰ってすぐテニスコートに行き

友達と夜まで練習、土日は朝から夜までずっとテニスばっかりしていました。

テニス中心の生活は中学生になっても変わらず続いていました。

その成果もあり1年生の時から試合に出させてもらうことができました。

練習は厳しかったですが、毎日が楽しく充実していました。

中学2年生になり3年生が引退し、自分たちの代の最初の大会前に膝をケガし半月板を手術することになりました。

部員の人数が少なく、大会に出る人数がギリギリだったのでかなり焦りました。

最初は手術するかとても迷い、そのまま部活に参加しましたが思うように動けないと自分でも自覚がありすぐに手術をして、大会に間に合わせるためにリハビリに取り組みました。

でも、リハビリは楽しくないし練習は見ているだけで正直全く楽しくなかったです(笑)

リハビリに行くのも嫌になっている時にリハビリを担当してくれた先生が

『 リハビリは楽しんでやらないと駄目だよ、一緒に頑張ろう! 』

と言ってくれた事がきっかけで 「頑張ろう!」 と思う事ができました。

リハビリの時も笑わせてくれたりメニューを色々考えてくれて楽しく取り組めました。

このリハビリの先生がきっかけでこういう人の体をみて健康のお手伝いができるような仕事に興味を持ちました。

 

その後の体のケアなどで通った整骨院の先生にも、体のケアの仕方や痛みが再発しないようにとアドバイスを沢山教えてもらい、手術をして2週間程で無事大会にも出る事が出来ました!

整骨院の先生には、沢山のアドバイスをもらい自分の事の様に一緒に考えてくれました。

 

一緒に体を良くしていこうとしてくれているのがとても伝わりました!!

体の状態もですが、気持ちの部分でもかなり助けて頂きました。

いつか自分もこの先生のように、沢山の方を体だけでなく気持ちの面でも支えることができる先生になりたいと思い、柔道整復師になろうと決心しました。

 

高校を選ぶ時もスポーツの勉強がしたかったので、地元のスポーツ系列のある高校に進学しました。

専門学校は、沖縄にある沖縄統合医療学院に通いました。

学生の時に、縁がありちゃたん整骨院でアルバイトをさせて頂き、健康になるためには何が大事なのか治療の技術だけでなく学校では学ぶことができない現場の雰囲気や接し方など沢山の事を学ぶことができました。

 

憧れていた柔道整復師の資格を所得することができ、

これからは、患者さんが痛みのない・そして再発せず楽しく好きな事ができる生活を送って頂けるようにお手伝いさせて頂きます!

 

奥平 敬輝

奥平 敬輝

役職
柔道整復師
出身
沖縄県石垣市
誕生日
平成4年4月7日
学歴
八重山商工卒業 東洋医療専門学校柔道整復科卒業
趣味
飲み会 スポーツをする事

治療家になったきっかけ

沖縄から離れた小さい島「石垣島」で生まれ育ちました。

小さいころからやんちゃでちょこまかと動く、動くたびにどこかにぶつかりけがをする。

顔に傷が無い日があったかわからないくらい本当にせわしい子どもだったと聞いています。

そんな僕も小学3年生になる頃に野球をはじめました。楽しく野球をしていたのですがある日、いつものようにボールを投げようとしたときに強烈に肘に痛みが走りました。ボールを投げるどころか握るだけでも痛い。しっかりと治療をしとけばよかったのですが、もう野球はできないと勝手に思い練習から遠ざかり、野球からも離れていってしまいました。

中学に上がると、野球をしたいと思いながらも、また肘の痛みが出るのではないかと思い迷っていると、バレー部の顧問の先生から何度も「バレーをしてみないか」と言われバレーをしてみることにしました。

最初は「少しだけ」という気持ちで始めたのですが、どんどんやっていくうちに楽しくなり夢中になっていきました。バレーボールは今でも自分を忘れ、無我夢中でできる最高の癒しです。

小学、中学の時には夏の陸上の選手にも選ばれ陸上も必死に取り組んでいました。中学1年の時に大会2週間前の練習中にいきなり股関節が痛くなり、「脚があがらない」「歩くこともままならない」そんな状態になり兄の紹介で整骨院に通う事になりました。

そこの先生には「大会には出たい!!」「来週には練習したい!!」と無茶なお願いばかりしていました。それでも先生は「わかった!!」「大丈夫だよ」と励ましてくれ、応援してくれました。

その先生のおかげで大会に間に合っただけでなく、いい成績を残すことがき、県大会にも出場できました。

その頃から「先生はかっこいいな」「先生みたいになりたいな」と思い始めました。

高校生になったころ、バレーの練習をしていて、県大会4日前に相手の足の上にのってしまい捻挫をしてしまいました。夜になるにつれ足首はパンパンに腫れ、脚を上げるのでさえ激痛、夜も寝むれない程の痛みで次の日の朝一に病院へ行きました。

病院ではレントゲンをとり、痛がっていたのに「骨も問題ないし靭帯にも異常ないから大丈夫。酷い方の捻挫と言うだけで2~3日で治るよ。薬と湿布と少し固定しとくね」とそれだけで終わり。

薬も痛み止めで薬が切れると激痛、大会には少し動けるようになったのですが皆にばれないように痛みにこらえながら必死に試合に出ました。結果はいいものではありませんでした。

大会終了後にも痛みはなかなか引かず、中学時代にお世話になった整骨院に通おうとしましたが、そこの整骨院はもうなくなってしまっていて、仕方なく他の整骨院へ行きました。そこでの先生方も一生懸命治療してくれましたがなかなか治らず、痛みが完全に引くのに1年近くかかりました。

そこでふと「沖縄の整骨院って県外と比べてレベルってどうなんだろう」

「マッサージ、電気治療だけじゃなくて他の治療法とかないのかな」と疑問を抱くようになりました。

将来は「沖縄の皆を助けていける人になりたい!!」

「柔道整復師、治せる治療家になりたい!!」と強く思い始めたのもこの頃でした。

高校卒業後は整骨院の数が一番多く、技術も高いのではないかと考え大阪の専門学校に通い始めました。

学生時代は勉学に励みながら、沖縄とは違う大阪の雰囲気を楽しんでいました。

専門学校卒業後はそのまま大阪の整骨院に就職し、他の先生方に厳しくも優しく指導して頂き、色々な治療の考え方や技術、人の体のみかたなどの他にも人としての考え方などを教わりました。

大阪での修業は苦しくもありましたが、とても充実していて人としても成長できました。

大阪での先生方に感謝しております。

そして、沖縄に帰ってくることになり、ご縁がありましてちゃたん整骨院で働かせていただくことになりました。

夢であった沖縄に帰ってきて、沖縄の皆さんの「健康」に携われることができてとても嬉しいです。

これからも日々技術の習得や勉学に励み、沖縄の皆さんを一人でも多く「健康」な体・生活が送れるように手助けをしていき、一人でも多くの方の笑顔がみれるようにこれからも精進していきます。

宮城 匠

宮城 匠

役職
柔道整復師
出身
本部町 
誕生日
平成1年10月30日
学歴
北部農林高等学校卒業 鹿児島第一医療リハビリ専門学校卒業
趣味
野球 三線 お酒を飲む

治療家になったきっかけ

子ども時代は、頭をケガして縫ったり、足や手を骨折したりと、ケガが多く落ち着きがなく、親に「落ち着きなさい!」と言われていた記憶があります。(笑)

小さい頃から運動がすきで、特に好きだったのが野球でした。

小学3年生頃から本格的に野球を始め、一生懸命打ち込みました。

僕が通っていた学校が小規模校という事もあり、中学生になると野球をしながら、駅伝や陸上も並行してやっており、陸上と野球シースンが重なると、朝に陸上の練習、終わったらすぐ野球の練習とハードな時もありました。当時、ケアの大切さを知らず、動かすだけ動かして酷使していたせいか、高校に入学する頃から、腰痛と右足首の痛みが出るようになりました。テーピングや痛み止めを飲んで誤魔化していましたが、その痛みがだんだんと酷くなってきて、一歩踏み出すだけでも激痛が走る時もありました。痛みに耐えながら練習していたので思うように動けず、苦痛だったのを覚えています。当時の心境は、そのまま野球をやめようかな…これじゃできないと思っていました。ケガがある為、レギュラーも外され精神的・肉体的にもかなり落ち込んでいる時、監督に紹介してもらったのが整骨院でした。その時、今の仕事との最初の出会いでした。最初は、「整骨院は何するのだろう?そもそも整骨院って何?不安だな」なんて思っていました。初めは緊張していたものの、先生方が気さくに話してくれたり、今はこうした方が良いなどアドバイスをしてくれました。その時はすごく心強かったです。落ち着いて施術を受けられ、安心して通える様になりました。整骨院に通っていくうちに、痛みも治まってきて徐々に動ける様になり、何より沈んでいた気持ちも明るくなっていたのが、自分でもわかるぐらい元気になりました。ケガが改善し、大好きな野球とも上手く向き合え、お陰でまたレギュラーにもなれました。当時の先生方には、今でもとても感謝しています。

また、僕が高校3年の時に、祖父が脳梗塞になってしまい、右半身が思うように動けなくなりました。昔からおじーちゃん・おばーちゃん子で、祖父の脳梗塞はすごくショックで「祖父を元気にしてあげたい、今よりも動けるようにしたい」と思うようになりました。

昔から、人の役に立つ仕事がしたいと思っていました。当時の進路の先生から「柔道整復師と言うのがあるけど、いいんじゃないか?」と言われ、柔道整復師はどういう仕事なのかなど、調べたり聞いたりして、自分に合っている仕事だと思いました。

ケガや祖父の脳梗塞を通して「整骨院と言う仕事もあるんだ!こういう風に人助けできる良い仕事があるんだ!将来、僕も痛みで困っている人の心も体もケアして楽にしてあげたい」という思いがだんだん強くなり、今の仕事を目指しました。

高校を卒業後、鹿児島第一医療リハビリ専門学校で3年間専門分野を学び、柔道整復師免許を無事取得、卒業したのちそのまま鹿児島に6年半就職しました。

整骨院で働くにあたって、鹿児島の先生方に色々ご指導してもらい、実際の現場に出て患者さんに触れて学ぶ事は多く、鹿児島での6年半ですごく成長できたと思います。

自分を成長させてくれた、鹿児島のスタッフはじめ、鹿児島の患者さん、自分と携わった人にすごく感謝しています。

鹿児島で働いている時から「痛みで困っている患者さんや、どうしたら楽に生活を送くれるか、痛みが再発しないようにはどうしたらいいか」と言う事を常に念頭に置き、健康に携わってきて「いずれは沖縄に帰ってきて、沖縄の人を元気にしたい!」と思っていました。

これからは、今まで学んだ知識や経験・考えなどを活かして、沖縄の人が元気になるように、サポート・お力になりたいと思います。

ちゃたん整骨院から患者さんを元気に致します。

山崎 幸治

山崎 幸治

役職
柔道整復師
出身
大阪府吹田市
誕生日
昭和58年4月13日生まれ
学歴
京都産業大学経営学部卒業、東洋医療専門学校柔道整復師学科卒業
趣味
海遊び(SUP、シュノーケル)、うまいもんめぐり お酒をたしなむ

治療家になったきっかけ

昭和58年4月13日山﨑家の長男として生まれました。生まれも育ちも大阪ですが、両親は大分県出身ですので言葉はコテコテの大阪弁ではないようです。大分の豊後水道の荒波のもまれた魚を食べる機会が多かったので、おいしい魚が大好きです。

小さい頃から体を動かす事が好きで、3歳から12歳まで水泳、小学校では部活でバスケットボール、地域のチームでは野球をしていました。バスケットも野球も6年生の時に両方キャプテンをさせていただいていました。他に習字や公文式などなかなか多忙な小学校生活だったように感じます。小学校の時は特に大きなケガもなく、好きなだけ運動をしていたという感じです。

中学生の時に上がった時、バスケットをするか野球をするか迷いましたが、バスケットボール部に入りました。タイミングが良かったのか当時では珍しく、1年生の夏から3年生に交じり試合に出させていただくようになりました。3年生に従兄弟も同じ部活にいたのですが、試合には出ていなかったので、少し気まずい思いもありながら、バスケットをしていたように感じます。ただ当時の監督が部の保護者会で、1年生ですが3年生の中でもどんどん使っていきますので、よろしくお願いいたします!と言ってくれていたのを後で聞きました。

中学校の2年生の時に、腰がおかしいなと思う事がよくありました。そうしている間に、どんどん痛くなり、自分ではどうしようもないぐらいでした。痛すぎる…。整形外科に行き、レントゲンを撮り、『骨には異常がないね、筋肉の問題だから湿布出します。痛かったら痛み止めも飲んでください』との診断でした。正直全く納得できませんでした。この痛みが湿布・痛み止めで治ると思えなかったのです。

案の定、改善はみられず、15分も座ってられない、松葉杖をつく時もありました。もう一度細かい検査をするためにMRI検査をすると「腰椎分離症」という診断でした。お医者さんに部活をするためには手術をした方が良いと言われました。注射も怖いのに手術なんか考えられませんでした。そこから整骨・整体院行脚の始まりです。鍼灸院等も含め5件以上は行ったでしょうか。

そんな時、学校の先生の紹介である整骨院を紹介していただきました。

そこで出会った先生のおかげで今の自分があります。

本当に痛みが辛く、なかなかしつこい痛みだったので、施術中あきらめず、先生が順番を最後にして、院を閉めた後も僕のために時間を取っていただき、遅くまで施術をしていただきました。
施術が終わると、そのまま食事に連れて行ってくれたり、いろんな面でサポートをしていただきました。受付の方も親切で、施術以外での安心感というものもかなりありました。

痛みを持ちながら、ケアをしながら3年生ではキャプテンもさせていただき、現役生活を無事終える事ができました。
この時から、この先生みたいに「治療家になりたい」と思いました。
高校に進学し、自分の腰の状況を考え部活でのバスケットボールは断念しましたが、整骨院の先生の繋がりで週一回のクラブチームでバスケットボールをしました。部活では断念しましたが、バスケットはできる環境があった事が救いでした。高校卒業後すぐに僕としては整骨院の先生になるための専門学校に進学したかったのですが、親が昔気質でまずは大学に行ってからでもいいんじゃないか。当時僕は、大学に行く意味がわからず、ただただ一直線に専門学校に行きたい気持ちがありました。話し合う中で親に激しい口調で言った事もありました。両親からしたら、当時の整骨院はあまり認知されていなく、大学に行っておけば夢が変わっても何とかなると思っていたと思います。夢が変わらなければ、また専門学校に行けばいい。

結果話し合う中で、大学進学を選びました。正直、僕の中では専門学校行く前提での大学進学でしたので、あまり楽しめる感じではなかったです。
ただ、その間に少しでも知識を増やそうと健康学・心理学・経営学を学びました。通学の2時間めっちゃしんどかったです。
ただ、今思うと大学生活の4年はいろんな人に出会い・いろんな経験ができ、本当に意味のあるものになったと思います。大学に行かしていただいた両親に感謝です。
大学4年生の途中から、先ほど治療家になりたいと思ったきっかけをくれた先生のところで、助手として働かせていただく事になりました。大学卒業後の夢変わらず、専門学校へ進学しました。専門学校時代は朝整骨院、昼間学校、夕方から整骨院、夜中は週3回程飲食店でバイトをしたり、なかなかハードでしたが、充実した生活をさせていただいていました。
こういう3年間を過ごし、柔道整復師国家資格を取得しました
僕は沖縄が大好きで、いつか老後でもいいから沖縄に住みたいという夢がありました。慢性沖縄中毒症ですと自分で言っていました(笑)
知り合いの先生の紹介で、沖縄の整骨院で働いてみるか?とのお話をいただきました。

迷いましたが、迷っているって事は行きたいって事や!と思い2011年の7月沖縄での生活が始まりました。

大阪での経験を活かして人を治して、喜んでもらうぞ!いう気持ちでやっていましたが、揉んだり、マッサージをしたり、ストレッチ、ローラーベッドに寝てもらうという流れ作業。改善というよりは、ただ気持ちいいだけの事しかできていませんでした。もちろん、それで喜んでくれている方がいたのは事実です。ただ改善しているのか?また痛くなったって言ってるけど。もう少し揉んでくれへん?自分がやってる事は正しいのか?と思うようになってきました。奥さんが体調を崩してもその場しのぎの事しかできない自分、どんどんマイナスな事を考え、この業界自体を嫌になってきている自分がいました。そうこうしている内に僕も体がきつく、痛くなる事が多くなりました。・・・大阪に帰ろうかな。

そんな時、治せる人・今の治療技術に出会い一気に治療の世界が変わりました。今まででは考えられなかった症状が改善し、今までに感じた事がない「ありがとう」をもらう事ができました。

奥さんの体がきつい時も、ちゃんとした事ができるようになりました。僕も心身ともに楽になっていきました。自分の家族にちゃんととした事ができるという事が、僕自身かなりの自信になりました。仕事、遊びのメリハリがつきバランスよくできるようになったのもこの頃からだと思います。

治療技術や接遇、この業界は勉強を続けるしかありません。これからもみなさんに選んでいただくために自分を磨いていきたいと思います。

今後とも努力していきますのでよろしくお願いいたします。患者さんから『先生、良くなってきている、来てよかった、ありがとう』の言葉をいただくために、最大限の努力をさせていただきます。

現代社会は昔に比べ、いろんなストレスの多い社会になっています。仕事や時間に追われ休めていない、環境の変化、対人関係等様々な不可が体にかかっています。そういう世の中なのでいろんな症状に苦しんでいる方がいます。病院に行っても原因がわからない、どこに行っていいかもわからない。その中で僕を選んできてくださっている方々、これから縁があって僕の所へ選んで来てくださる方にとって僕は一番身近な専門家、健康へ導くアドバイザーでいます。僕の施術でも症状が長く続く方がいるかもしれません。ただ僕は、あきらめません。今できる全ての術を使って健康へのサポートをさせていただきます。

人の健康に携わる仕事をさせていただき想う事があります。それは体が健康じゃなければ、人生楽しくないという事です。あなたの周りには家族、友達、恋人、心からあなたの健康で楽しい人生を望んでいると思います。体が痛い時、辛い時、自分の事以上に気にして心配してくれる人がいますよね?僕にも何かあった時に心配してくれる家族、友達がいます。逆にそういう心配をかけないという事が大切だと思います。

正直、病気やケガをしないと気づけない、自分の生活を見直せないという事が人間だと思います。こんな事を書きながらもちろん僕もまだまだそうです。ただ、そこで気づき行動に移せる事が大事だと思います。

体の事で悩んでいる方をサポートしたい、体は変わるという事を感じてもらいたい。

自分が痛みで苦しんだ分、痛みで苦しむ方を少しでも助け、できなくなった事をできるようにレールに乗せてゴールに向かう事が僕の仕事への想いです。